昭和49年12月23日 月例祭



 昨夜お広前を奉仕終わりましてから、居間に下がらせて頂きました。それからテレビを付けて見ました。したら丁度、あぁキリストの映画があっておりました。「偉大なる人の生涯」とかな、と言う様な第の映画でした。丁度キリストが裁かれている所で御座います。その理由というのが、目の見えない老人の目を立ち所に見える様にしたというのです。それはまさしく、その悪魔の仕業だと。所謂奇術だ、魔術だと言う訳なんです。その生き証人にその盲人のおじさん。
 盲人であったおじさんが証人台に呼ばれおる所の場面で御座いました。私はその映画を見せて頂いて、今合楽で行われているというか、皆さんが受けておられるおかげの、もうそれこそ不思議なおかげの数々を思うに付けてです。もし私が二千年前であったら、私も張り付けに会わなければならない様な運命になるのではないかと言う様な、何か胸がづんとする思いが致しましたね。
 本当にこの合楽示現活動が言われる様になり、此処に約半年余りの間にです、もう本当に数え切れない奇跡が生まれているからです。例えば、昨日の朝のご理解のに、ご参拝お礼参拝に見えていた方達の事を申しましてもです、ね、八十になるお爺さんが底碑で、もう目が見えなくなった。そこでおじさんは手術をすると言われる。それでその親戚の方が大変おかげを奇跡的なおかげを頂いたのでそのおじさんに話導かれた。その秋山さんとか、三橋先生の遠い親戚になる方達であるです。
 それが丁度、十四、五日前の話で、どうせもう見えなくなったんならあんたそげん悪い、わざわざもう慌てんで良いです。もう年が八十になっているとじゃから。八十年間見えて来たのだからその事をしっかりお礼ば言いなさい。というておりましたが、丁度、まぁ15日余りの間にその目が見える様になった。昨日、その親戚の方とそれからおばあさんとがお礼に出て見えました。おかげで見えるよ雨になったからもう字が、手術はせんでいい。もう病院には行かんでもよかと言いよりますと言うのですね。
 是も昨日の朝お参り、是も親戚中で参っておりましたお礼に。息子さんが白血病です、愈々医者が助からないと、自分のお取次ぎを願っている教会の先生ももう今度は駄目じゃろうち、そのもうおかげを頂かれん様に言われた。それなら一つ合楽の先生にでもお願いをしようというて、お参りをして来て、その時に体質改善と言う事を私は頂いておった、ね。ご承知の様に白血病というのは、もう今の現医学ではどうにも出来ない、ね。けれども体質改善がなされる時、また血が増え出したとこぉ言う。
 あれは血が増え出したら又仕事にが出来るそうですね。もう仕事をしとると言うのです。唯ただ言うならば驚くばかりです。最近私が思わせて頂きますその奇跡の数々の事を思うのにです、皆さんはどうでしょうか。本当に此処に奇跡を見せて貰たい。まのあたりにおかげを頂きたいと。矢張り皆さんも願われるでしょうね。もしそこに難儀な問題があったら、もう立ち所に返っておったら、もうおかげになったと言う様な、ね。
 私はこの合楽示現活動が始まるときに、神様から頂いたのがですね、疑うも氏子が縋る気がありゃ、奇跡を見せるとおっしゃる、ね。疑って今までは信じなければと言う事だった。キリストも又そう言っている。私を信じよ。信ずれば助かるとこぉ言う訳なんです。是で親先生を信じろ。信じればおかげになる。今まではそうでしたけれども、最近の合楽は信ずる事はない。
 それも疑って掛かっても縋るという、頼むという気になれば奇跡を見せると仰る。何の為にそういう奇跡を見せて、私共に何を期待してのそういう神様の働きであろうか。その奇跡の現れ方が二つ、二通りあるようです。今申しました、白血病の話やら、目が開いたというその話やらは。是は一つ同んなじ類型の奇跡であります。今日吉井から杉さんのお導きで参って見えております、吉松さんですね。
 この方の奇跡的なおかげというのは、うじこ信心しておかげを受けてくれよという。その信心が身に付いて行っておる。信心が有り難くなっておる。この前の前の月次祭でしたか。いっしょに杉さんとお参りをして帰り道です。杉さん「こういう有り難い神様が、御座ると言う事は知らじゃった。こういう有り難い、お話があるとはもう知らなかった、ね。杉さんこげなん有り難い話は、人には誰にでもしますわよ、教えますわよ。」と言うて帰ったというんです。
 明くる日杉さん参って来てから、夕べ親先生吉本さんがこう言う事を言うて帰られました。私は本当にそれを実感だろうと思いました、ね。と云う程しに、信心の有り難さを分からせて頂きながら、それはお仕事の上にでもたまがる様なおかげを現しておられます。今日も、あただに気が付いて、もうおかげを頂いて居る事に初め気が付いてからお礼に出て来たというて、私が四時のご祈念終わるその前に参って来ておる、ね。
 足に膝に水が溜まるという病気である。もうそれはずいぶん痛むそうですね。もう二階に上がられるのには、もうそれでやっと上がっとった。今日二階は上ったり、下ったりするのに、走って上ったり、下ったりしておるのにほっと気が付いた。あらぁ、私合楽にお参りをする様になって、一辺もほんにそげんいや、痛いもせんが、水も取らないがと気が付いてあただに今日はお礼参拝をさせて頂いたと言ってます。心が信心の喜びで一杯になる。心が信心を頂かせて貰うと言う事が。
 もうとにかく嬉しゅうて堪らん。とてもこげなん有り難いよか話、お話やらおかげの頂けれる信心ば、もう誰にでも教えると勿体無い。もう黙っておこうじゃと言われる位に、おかげ有り難くなって行きよる。その有り難いというその心にです、今日桜井先生が、お知らせ頂いておられる様にですね、錦鯉と金魚が一緒に同居しておる、お知らせを頂かれて、泳いでおる。錦鯉というのは、お徳の事でしょう。金魚というのはまぁ金銭的なおかげ。まぁおかげと言う事でしょう、ね。
 だからお徳、信心を頂いて行くなら、それに伴うた、おかげが足ろうて行かなければいけない。信心は出来んのにおかげを受けるというのが昨日のお礼のお届にあった、盲人さんが目が開いた。白血病が助かったというのは、是は唯いうなら、疑うてかかってもです、それでも縋るという氏子が気があればおかげになるというおかげであります。けれども皆さんの中にはどうでしょうか。もしそう言う風に骨をおらんで頂けれるおかげの方が、良いと思う様な事ではお道の信心は頂けんのです。
 是は今の神様のご都合です。合楽示現活動がに参画する人達が愈々ね、もうぐずぐずしておっては間に合わないと言った様な物を感じる時にです。神様が神の働きをです、神の実在をです、ね、信心の解らない疑うている者にでも、解らせねばおかんという働き又他にもあるかも知れません。私には解らないのです。だからもしそういうおかげばかりであったならば、やっぱり私も張り付けに合うかも解らない、ね。
 けれども此処にはね、信心を渡すのである。信心を分からせるのである。是も昨日の桜井先生の所のお母さんの五十日祭が此処で、此処に改めて合碑祭と共に合楽に言うならば終生こちらにお願いしますという改式のお祭りが御座いました。神様に其の事をお礼を申させて頂いておりましたら、昔あのお百姓さん、床が高かったですね、ですから一つ段がまいっちょあったでしょう。子供なんかは上に上がり切らんとです、その上がり段があってね、そこに七、八歳位の女の子が履きます、昔かっぽりと言いよった。
 こぉね、良い着物を子供に。そのかっぽりが奇麗に揃えて置いてある所を頂いた。そしてあの神様の横にある上に上がって行く時の段がありましょう、であそこのところを頂いたんです。福岡の教会にお願いをなさり、そして亡くなられる時に、そして出来ませんでしたから。現在唐津におられますから、唐津の教会にお葬式、告別式はあちらでお願いをして、十日十日の苦実祭は、唐津に行き、最後の苦実祭はここから、若先生と末永先生が行くと言った様なね。
 そしてえぇ、とどの詰りは、ここでに、お願いをなさる事になったのです。だからそれとても消して無駄な事ではない。一つの段階をおうてと言う事なのです。わずらわしい事である様であるけれどもです、御霊様の云うならば昇格とでも申しましょうか御霊の位も一段一段と進んで行くと云うか。そう云う私は是からもなら神様の目からご覧になればもうお婆さんですけれども、神様の目からご覧になれば七つか八つの娘ぐらいの所ではなかろうか。それからいわば愈々オソ立てを頂いて。
 成長して行かなければならない様に、信心もです段階をおうて一段一段とね、進んでね上って行かなければならならいね。それが信心をさせて頂く者の言わば目指しでなければならない。唯不思議なおかげを目を見張る様なおかげを唯その所だけを願う、お参りもせんで商売繁盛のおかげを頂く、ね。信じてもいない、疑うておっても縋るという気になりゃ奇跡を見せると仰るから。そういう奇跡だけを例えば、願う頼むと云う様な信心ではおかげにならんと言う事である。
 是も昨日、その目の見えないという、お爺さんが目が見える様になったから、その村内がそこ親戚が一杯らしいです。それで又まぁ従兄弟はとこに当たる人でしょうか。その方が一緒について、参って来ておった。話を聞くと、一年前に、息子が事故を起こしている。ところが相手が悪かった。もう病院から退院して帰ってね、大体済んだと思っておったところが、そのまぁ中に入っておる人が、悪い人が入っておって、まぁ沢山のお金を要求されていると云う様な問題で、まぁそう言う事でも。
 お願いが出来るだろうかというて、お参りをして来た。それで私はその事を神様にお取次ぎをさせて頂いておりましたら、雪だるまを頂いたね。雪だるまにゃあの炭団やら炭やらがね、目には炭団丸い炭団が下の口の所はね、炭をこぉ切ってするでしょう。その雪だるまがだんだん融けて行くんです。融けて行って残った物はその炭団と炭だけになった、ね。雪だるまが融けて、そしてその炭と炭団になってしまったと言う所を残ったのは苦労ばっかりであると言う事。
 一年間の間に問題は解けてしまったんだけれども、おかげを頂いたんだけれども、良くなったんだけれども、苦労は依然としてとして残っておる。それで私がその方に申しました「信心というのはね、その難儀な問題。例えばそういう難儀な問題がなからなければとても貴方が合楽には参っては来ない。是からはその残った苦労を生かして行くと言う事。それを生かす事が、是からの信心だ」というて、お話をした。それが信心なのです、ね。だから是からはちっと寒かろうけれども。
 冷たかろうけれども、また一つ雪だるまを作らなければいけない。作り上げてその言わば残った苦労の炭と炭団を目につき、口につきする事によって、またその炭が炭団が生きると言う事になる。今度のはね、信心の雪だるまだから素晴らしい。「色が黒うても炭団の様でも、雪のだるまの目に止まると言う事。」お互いの信心がこぉ活発に動いているね。はぁあの氏子の信心は珍しい。神様の目に止まる。そこから神様のご信用を受ける事になり、お徳を受けると言う事になるのです。
 だからそういう一年間掛かって、どうにも出来ない、難儀苦労が、雪は融けたけれども残ったのは、苦労ばかりであった。けれども、その苦労のおかげで御神縁を頂いた。そこから新たな雪だるまが出来た。その炭が苦労が生きて来たと言う事はです、ね。あの苦労のおかげで例えば、仲原さんと言いますが。仲原さん一家がの幸せの土台が元がそこから出来たんだ。御神縁を頂いたのがあの時であったと云う様にです。あの時のその苦労が生きてこそ、初めておかげなのです。
 成程教祖様は、天地の親神様教祖様にです。願う氏子にはおかげを授けと仰せられますから。矢張りおかげを下さいますけれども、ね。その後には、所謂理解申して聞かせとある。理解、ご理解を頂くと言う事によって、心がね喜びに躍動して来る、ね。こういう有り難い神様を今まで、かって知らなかった。こういう有り難い話を聞いた事がなかった。本当に有り難いご縁を頂いた。それもあの苦労のが、元であったと言う事になる時に、苦労にお礼が言えれる様なおかげになって来るのです、ね。
 お互いの心の中にはね、矢張りもう出きるだけそのお参りもせんでね、言うならば苦労なしで奇跡的なおかげでも頂けれるならばそれを願う。それを取ると云う様な心がです、私共の心の中にはありますけれども、心が信心の喜びに、ね、心が喜びに湧いて来る、ね。そこに私は信心者のおかげを頂く言わば値打ちがあると思うのです。今年も愈々月次祭としては、この月次祭が最後であります、ね。前夜祭が三十一日にあります。そして新たな年を迎えさせて頂く訳で御座いますけれども。
 今合楽でね、奇跡が続出している。そのただ奇跡と言う事がです、どう云う訳に神様が奇跡を見せてと云う事はね。神様が愈々助かりたいね。其処から又氏子が助かって行く。神様が助かれると言う事はね、氏子がおかげを受けてね、その受けたおかげを示現して行く。そこに神仏が先にたって、お働き下さるというのが奇跡であります、ね。ですから唯私共にです本当の信心を解らせて、本当の助かりを願っておられるゆえの奇跡であります、ね。だからあれよあれよと例えばその奇跡を追うとか見て。
 唯たまがっておるというだけではなくてです。そこから愈々神慮の深さ、神様の心の深さを悟らせて頂いて、その神様の心に添い奉らなければね。今合楽でこのカセットが二十一台毎日是に録音をしているそうです。その二十一台、例えば二十台なら二十台のカセットがです、日に五人のその人がそれを聞く事になりますと、百人の人がお話を頂く事になります、ね。それが合楽示現活動なんです、ね。
 最近どうでしょうか。その合楽示現活動を願わせて貰わなければ、ね。神様が奇跡を見せてでもというのはです、それは実際はそういうおかげの頂けれる受け物も何も無いのだけれども、疑うて掛かってでも奇跡を見せてでも神様が自分の心を分かって貰たい、ね。そして、世界の言うならば真の平和というか。総氏子の身の上安全を願うておって下さるの余りが奇跡であります、ね。
 それは本当に不思議な事です、今日正義先生が丁度午後からの奉仕の時に、お参りをして来たんです。それがあちらの長男がちょっと交通事故を起こしておる。相手の方にまぁ怪我をさしたかなんかでしょう少し。その事のまぁ賠償ですか。その話し合いにその方のお父さんが久富の方建設に見えられた。色々話している中に、奥さんがもうそれこそ助からんという癌の病気で、どこどこ病院に入院しているというのである。
 今日又その方の息子さんも一緒にお参りをして来てます。広川村からね。成程話を聞きやもう人間的には助かるまいとまぁ勿論思う様な大病でありますね。けれどもとにかく、私が参りよる所に一辺お参りをしなさいというて、お父さんをお導きして参って来た、ね。その時に私がね、はぁ是は助かると思うたんです。というのは、その方が緒方さんというんです。合楽教会には緒方というのが一人参って来るんです。鳥栖、鳥栖の上野さんの娘さんがおがたなのです、ね
 。この人がああ、あの、結婚しても中々妊娠のおかげを頂ききりませんからお願いに来ている時に丁度久留米のおがた病院の奥さんが結婚して十年になるけれども子供が出来ん。それをお願いをして子供に恵まれた。その緒方さんが続いて参って来たから私が美也子さんと言うんです。あら、あんたおかげを頂くばいと言うたら、その月からおかげで、妊娠のおかげを頂いた。そして二人の子供に恵まれた。神様がおかげを下さる時にはね、そういう働きがあるんです。
 丁度今日も、あのおがたさんがお届終わったら、その緒方美也子さんが参って来るんですよ。もう正義さんと二人此処もう下がっておったけん、「ちょいとちょいと来んの」と言うてから、私がお届帳を見せてね、「是はおかげを頂くよっち。神様がもう受けて下さったよ」と、緒方さんが二人続いた。その緒方さんが、毎日でも参って来ているとでは、滅多には参って来ん緒方さんが参って来ている。と言う事は神様がもうね、それこそ疑うても縋る気がありゃ。
 助けるという言うならばそういう働きを見せて下さったんだよと言うて、そのまぁ申しましたから。お父さんはやっぱ元気付いて帰られたんでしょ。今日息子さんがお参りして来ておられる、ね。もうおかげを下さる時には、そういう働きがあるんですよ、矢張りね。ですけれども、そういう奇跡のおかげを頂いたから、人間が幸せになるとか、と言う事ではないのです。それによって、神様を分かると言う事によって、人間の幸せが決まるので御座いますからね。
 愈々その吉松さんじゃないですけれども、いわゆる、信心の本当の有り難さが解らせて頂いて、喜びに心が躍動して来る様な、おかげを頂く時に、願いもしなかった、足の水が溜まるのが、何時の間にかおかげを頂いておる。おかげを、保険かなんかの外交をなさっておられる。それで先月も思いも掛けないおかげを頂いてと言うてお礼に出て見えましたが、ね。心が喜びに一杯になる時に、願わない。自分の周辺の全てがです。あれも是もが整うて来るおかげになって来るのです。
 ですからどうでも信心の喜びが頂けれる所迄信心を進めて行かなければならん。段階をおうてであります。桜井先生の所の御霊様ではないですけれどもです、様々な事柄を一つの、ね、信心をに上る所の言うならば、足継ぎと言う様な又は飛出したいと思うて、本当な所へ、本当な所へと信心の屋外を屋外へと進んで行くと言う所にです。神様の願いがあるのです。だから神様の願いに答えての言わば、信心を頂かなければいけないね。奇跡的なおかげ、奇跡的なおかげとこぉ確かに合楽ではそれこそキリスト教。
 キリストではないですけどね。それこそある教会の先生がね、合楽では信心を渡さずにおかげを渡すと言われた先生があった。けれども実を言うたら、合楽では信心を渡すと言う事に言うならば一生懸命なのですけれども、頂く方の側がです。唯おかげをおかげに終始した、したんではそう言う事になります。おかげを頂いてです言うならば、ね、私がまだ修行中の自分でした。
 まだ真っ暗い三時四時頃から何時も長浜町から荒津の教会にお参りを歩いてお参りをするんです。そしてあの途中で、電気が点いたり、消えたりするね。点いたり、消えたりする電気が点いてあった所があったんです。それを神様が指差す様にして、例えばあそこにも此処にも電気は点いとる。点いているけれども、点いたり消えたりしている活動があっているのに目が付くだろうがと、ね。
 例えば信心でもです、そういう生きた活動、生きた働きと言う物がありよる物の上に神様は目を止めたまう。それこそ色は黒うても炭団の様でも雪のだるまの目に止まる程しの信心をさせて頂かなければ詰りません。ただ何時ーーもぼんやり、点きっぱなしと言った様ではいけません。その点いた電気が活動しておらなければいけません、ね。動いておらなければいけません。
 そこに言うなら神様の目に止まる程しのおかげが受けられる。そこからお徳の道が開けて来るのでありますね。私共の信心が果たして生き生きとして活動しているだろうか。そういう意味においてです、私は示現活動というのは、生きと心が生き生きとしておらなければその活動は出来ない。今度久保山さんが今日もお届をされましたけれども。娘さんと二人でカセットを買われた。それで毎日自分たちで繰り返し頂いて、そして今日は何人の人が是を聞いて貰うだろうか。
 もう大工さんじゃろうが、左官さんじゃろうが、来たならば、ちょいっとお話を頂いていきなさないという、今日は何人この話を聞いて貰うたというて、楽しませて頂き有り難いと思わせて頂いてるという話がありました。本当皆さんね、カセット買わなくても良いから、自分がカセット代わりになり、自分が拡声器代りにならせて頂いてです。多くの人にそれを伝えて行く様な働きこそ、私は生きた言うならば活動と言えるのではなかろうかと思います。
   どうぞ。